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ミニ提灯「浅草」(東京浅草みやげ)
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浅草仲見世で買ったミニ提灯です。 |
浅草の町
雷門と路地
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バスと五重塔
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仲見世と伝法院通り
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大阪のお土産(大阪府大阪市)
大阪城(大阪市中央区大阪城)の本丸御殿跡付近の売店で買ったミニ提灯です。
デザインはなぜか人形のかたちです。

取手付提灯と同じく四面でなく三面を利用している。
提灯正面は大阪の文字、

脇に大阪城の絵と

通天閣と三吉・小春の将棋の駒の絵

裏はそれぞれ絵の端が見えるが無い。

大阪城を見ようと思い立ち新幹線の新大阪駅で途中下車、在来線で大阪へ、大阪駅で環状線に乗換て大阪城公園駅で降り大阪城を訪ねました。
大阪城公園駅を降りると園内交通「ロードトレイン」が待っていましたのでこれに乗ることにしました。
新大阪駅ホーム
大阪駅ホーム
大阪城公園駅ホーム
大阪城公園内トレインとオブジェ
大阪城の第一印象は「大阪にも城があったんだ!」ということです。
大阪城は観光城というイメージが大でしたが、意外なことに、大阪城が江戸城に匹敵する規模で遺構として残されている城であることに感激しました。 大阪城については別の機会にもう少し詳しく取り上げたいと思っています。
大阪城大手前から
大阪城本丸から
【豆知識】
抜粋: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大阪市(おおさかし)
大阪市(おおさかし)は、日本の関西地方、大阪府のほぼ中央に位置する市。大阪府の府庁所在地。政令指定都市である。
古代から瀬戸内海・大阪湾に面した港湾都市として栄え、難波宮などの都城も造営された。中世には、浄土真宗の本山であった石山本願寺が置かれ、寺内町として発展した。近世初期には豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町が整備された。江戸時代には天領となり、江戸をしのぐ経済・交通・金融・商業の中心地として発展。天下の台所と称され、豊かな町人文化を育んだ。明治時代に入ると、繊維工業を中心とした工業都市となり、「東洋のマンチェスター」、「煙の都」と称された。
第二次世界大戦後には、重化学工業の比重が高まり、今日も阪神工業地帯の中核を担う。他方で、卸売業を中心に商業活動も活発で、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に問屋街が発達している。また中之島や北浜界隈には、金融街が形成されている。市役所の所在する中之島から大阪城にかけての地域には、官公庁や公的機関が数多く立地し、近畿地方の行政の中心地となっている。
大阪城公園(おおさかじょうこうえん)
大阪城公園(おおさかじょうこうえん)は、大阪市中央区の大型緑地公園。1931年11月6日開園。面積は106.7ha。
大坂城は、豊臣秀吉が築城し、大坂冬の陣、大坂夏の陣の舞台になった史跡である。公園敷地内には、大阪城ホール、多目的グラウンドの太陽の広場、軟式野球場、野外音楽堂、ラグビー・サッカーグラウンドなどが整備されている。公園の中でもひときわ高い位置にそびえる大阪城天守閣は、展望台と歴史資料展示の施設として開放されており(有料)、遠く生駒山から大阪湾まで大阪平野を見渡せる絶景は観光客の人気が高い。
かつて中之島に鎮座していた豐國神社が、昭和36年(1961年)に公園内へ遷座してきている。
デザインはなぜか人形のかたちです。

取手付提灯と同じく四面でなく三面を利用している。
提灯正面は大阪の文字、

脇に大阪城の絵と

通天閣と三吉・小春の将棋の駒の絵

裏はそれぞれ絵の端が見えるが無い。

大阪城を見ようと思い立ち新幹線の新大阪駅で途中下車、在来線で大阪へ、大阪駅で環状線に乗換て大阪城公園駅で降り大阪城を訪ねました。
大阪城公園駅を降りると園内交通「ロードトレイン」が待っていましたのでこれに乗ることにしました。
新大阪駅ホーム
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大阪駅ホーム
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大阪城公園駅ホーム
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大阪城公園内トレインとオブジェ
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大阪城の第一印象は「大阪にも城があったんだ!」ということです。
大阪城は観光城というイメージが大でしたが、意外なことに、大阪城が江戸城に匹敵する規模で遺構として残されている城であることに感激しました。 大阪城については別の機会にもう少し詳しく取り上げたいと思っています。
大阪城大手前から
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大阪城本丸から
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【豆知識】
抜粋: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大阪市(おおさかし)
大阪市(おおさかし)は、日本の関西地方、大阪府のほぼ中央に位置する市。大阪府の府庁所在地。政令指定都市である。
古代から瀬戸内海・大阪湾に面した港湾都市として栄え、難波宮などの都城も造営された。中世には、浄土真宗の本山であった石山本願寺が置かれ、寺内町として発展した。近世初期には豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町が整備された。江戸時代には天領となり、江戸をしのぐ経済・交通・金融・商業の中心地として発展。天下の台所と称され、豊かな町人文化を育んだ。明治時代に入ると、繊維工業を中心とした工業都市となり、「東洋のマンチェスター」、「煙の都」と称された。
第二次世界大戦後には、重化学工業の比重が高まり、今日も阪神工業地帯の中核を担う。他方で、卸売業を中心に商業活動も活発で、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に問屋街が発達している。また中之島や北浜界隈には、金融街が形成されている。市役所の所在する中之島から大阪城にかけての地域には、官公庁や公的機関が数多く立地し、近畿地方の行政の中心地となっている。
大阪城公園(おおさかじょうこうえん)
大阪城公園(おおさかじょうこうえん)は、大阪市中央区の大型緑地公園。1931年11月6日開園。面積は106.7ha。
大坂城は、豊臣秀吉が築城し、大坂冬の陣、大坂夏の陣の舞台になった史跡である。公園敷地内には、大阪城ホール、多目的グラウンドの太陽の広場、軟式野球場、野外音楽堂、ラグビー・サッカーグラウンドなどが整備されている。公園の中でもひときわ高い位置にそびえる大阪城天守閣は、展望台と歴史資料展示の施設として開放されており(有料)、遠く生駒山から大阪湾まで大阪平野を見渡せる絶景は観光客の人気が高い。
かつて中之島に鎮座していた豐國神社が、昭和36年(1961年)に公園内へ遷座してきている。
京都のお土産(京都府京都市)
京都駅前の京都タワー1階にあるお土産屋で買ったミニ提灯です。
裏表に京都の文字と舞妓の絵の単純なデザインです。
京都の文字

舞妓の絵

京都タワー

京都タワー(きょうとタワー)は、京都駅烏丸中央口前に大きく聳え立つ展望塔。京阪電気鉄道のグループ会社である京都タワー株式会社が運営している。台座となっている京都タワービルの高さを加えた全体の高さは131m。1964年12月28日開業。設計は、建築家山田守。構造設計は京都大学工学部建築学教室による。タワーの独特な姿は、京都市内の町家の瓦葺きを波に見立て、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたもの。また、本来のイメージとは異なるが、近くに東本願寺があることから「お東さんのローソク」とも言われることがある。
東寺 五重塔(国宝)

JRの電車からよく見える東寺(とうじ)の五重塔です。
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗総本山の寺院。東寺は弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。平成6年(1994年)12月には、「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録された。
五重塔は東寺のというよりは京都のシンボルとなっている塔で、高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手にはじまるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊である大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。江戸時代初期の作風を伝える。
「旧二条離宮(二条城)」

二条城(にじょうじょう)とは京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城で、徳川家康の将軍宣下と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもあります。
京都市街の中にある平城で、京都観光の定番となっているそうです。城全体が国の史跡に指定されている他に、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されており、文化財の詰まった城です。。
京都駅前

新幹線ホーム

JR京都駅(きょうとえき)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)他の駅で日本有数の観光都市である京都市の中心を担う駅です。
駅改札

駅構内

新幹線

京都駅を通る東海道新幹線の全列車が停車し、市営・私鉄のほか本州・四国・九州からの高速バス路線が多数発着することから、日本全国から訪れる客は多く1日平均の乗降人員が各社合計で63万人を超えるのだそうで全国でも有数のターミナル駅です。
(説明: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)引用)
裏表に京都の文字と舞妓の絵の単純なデザインです。
京都の文字

舞妓の絵

京都タワー

京都タワー(きょうとタワー)は、京都駅烏丸中央口前に大きく聳え立つ展望塔。京阪電気鉄道のグループ会社である京都タワー株式会社が運営している。台座となっている京都タワービルの高さを加えた全体の高さは131m。1964年12月28日開業。設計は、建築家山田守。構造設計は京都大学工学部建築学教室による。タワーの独特な姿は、京都市内の町家の瓦葺きを波に見立て、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたもの。また、本来のイメージとは異なるが、近くに東本願寺があることから「お東さんのローソク」とも言われることがある。
東寺 五重塔(国宝)

JRの電車からよく見える東寺(とうじ)の五重塔です。
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗総本山の寺院。東寺は弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。平成6年(1994年)12月には、「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録された。
五重塔は東寺のというよりは京都のシンボルとなっている塔で、高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手にはじまるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊である大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。江戸時代初期の作風を伝える。
「旧二条離宮(二条城)」

二条城(にじょうじょう)とは京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城で、徳川家康の将軍宣下と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもあります。
京都市街の中にある平城で、京都観光の定番となっているそうです。城全体が国の史跡に指定されている他に、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されており、文化財の詰まった城です。。
京都駅前

新幹線ホーム

JR京都駅(きょうとえき)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)他の駅で日本有数の観光都市である京都市の中心を担う駅です。
駅改札

駅構内

新幹線

京都駅を通る東海道新幹線の全列車が停車し、市営・私鉄のほか本州・四国・九州からの高速バス路線が多数発着することから、日本全国から訪れる客は多く1日平均の乗降人員が各社合計で63万人を超えるのだそうで全国でも有数のターミナル駅です。
(説明: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)引用)
箱根のお土産(神奈川県足柄下郡箱根町)
箱根のお土産「ミニ提灯」です。取っ手に吸盤つきのものです。
図柄はこんなです。
箱根路の文字

箱根関所の絵

箱根の案内図

取っ手に吸盤

箱根路は「箱根八里」といわれるように、小田原箱根口から約40万年前に箱根火山のカルデラの中にできた周囲20kmの細長い湖の芦ノ湖畔までの上り四里、三島までの下り四里をあわせていい、東海道の中でも箱根越は苦難の道だったようです。
芦ノ湖畔

そのためか、芦ノ湖、二子山のふもとから精進池付近に、大小数多くの石仏、石塔が立っています。
箱根路石仏

箱根路の中心は、江戸幕府が設置した箱根峠寄りの人口の町である「箱根宿」と「箱根関所」です。「箱根関所」は、「入鉄砲に出女」といって特にこの二つを厳重に取り締るために元箱根側の芦ノ湖畔に設置した関所です。
箱根大湧谷

また、約3000年前の箱根火山最後の水蒸気爆発をおこした爆裂火口で、今もなお熱い水蒸気と硫気を噴出している「大涌谷」も有名です。大涌谷は古来より「大地獄」とよばれていましたが、明治6年に明治天皇・皇后両陛下が箱根に御静養に来られる際に「両陛下がお出になる地に地獄があってはおそれ多い」と大涌谷と改称されたそうです。
箱根芦ノ湖

箱根芦ノ湖_箱根神社鳥居

【豆知識】
箱根関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
箱根関(はこねのせき)は、かつて箱根にあった関所である。
狭義においては江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、相模国足柄郡箱根(現在の神奈川県箱根町箱根)の芦ノ湖湖畔に設置された東海道の箱根関所(はこねせきしょ)を指すが、広義における「箱根関」は江戸時代以前に箱根山山麓に置かれた関所及び江戸幕府が東海道と並行して走る脇往還に設置した関所も含んでいる。
概要
箱根に関所が設置された始期については定かではないが、律令期には既に箱根峠を経由する箱根路が開設されるとともにその路上に関所が設置されており、足柄峠の足柄路とともに関東防衛の役割を担った。承平の乱の際に平将門が箱根に兵を派遣してこれを封鎖することを考え、承久の乱の際にも北条義時が御家人から出された箱根路・足柄路に置かれた関を固めて同地で官軍を食い止める策を斥けて兵を上洛させたと伝えられている(『吾妻鏡』承久3年5月19日条・『承久記』など)。室町幕府の鎌倉府も箱根に関所を設置して関銭の徴収を行った事が知られ、康暦2年(1380年)には、箱根の蘆川宿に関を3年間限定で設置して円覚寺の修繕に充てたと伝えられ、その後も応永13年(1406年)に箱根山中の水飲峠に水飲関が置かれたという。その後、戦国時代に後北条氏が箱根山の西側(伊豆国)に山中城を設置した際に関所の機能を吸収したという。
後北条氏滅亡後、江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、そのため箱根峠寄りに人口の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置したのである。
箱根関所は一時期を除いては原則的には相模国足柄郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされ、通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された。また、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。特に寛永年間に同じ東海道の今切関所と役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲を監視し、箱根が江戸から出る女性を監視する任務を主とするようになった。貞享3年(1886年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当を肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。
箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定され、建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとして者は厳罰に処せられたのである。
箱根関所以外にも箱根裏街道には仙石原関、足柄路の流れを汲む矢倉沢往還には矢倉沢関所、熱海入湯道(熱海道)に根府川関所など5ヶ所の脇往還にも関所が設置された。江戸幕府の公式な箱根関所と5つの脇関所から江戸時代の箱根関が構成され、それ以外の経路を通過することは「関所破り」「関所抜け」として固く禁じられていた。
明治2年(1869年)に明治政府が諸国の関所を全廃したときに廃止された(ただし、幕末の慶応の改革の段階で簡単な検問機能のみに縮小されていた)。跡地は国の特別史跡とされ、昭和40年(1965年)になって箱根町立箱根関所資料館が開設された。
箱根宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
箱根宿(はこねじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。現在の神奈川県足柄下郡箱根町にあった。
1618年に箱根山にかかる箱根峠と箱根関所の間の狭い地域に設置された。これに対して古くからの箱根の町があった関所から江戸寄りの地域を「元箱根」と呼ぶ。これは関所設置に不満を抱いた元箱根の住民が本陣の提供を拒んだため、大坂寄りに急遽人工の町を設置したためである。最初の住民は隣接する小田原・三島両宿場の住民を強制的に移住させたといわれている。標高725m という五十三次の中で最も高い場所に置かれていたため、幕府も宿場の維持に苦心したという。
隣の宿場
小田原宿 - 箱根宿 - 三島宿
図柄はこんなです。
箱根路の文字

箱根関所の絵

箱根の案内図

取っ手に吸盤

箱根路は「箱根八里」といわれるように、小田原箱根口から約40万年前に箱根火山のカルデラの中にできた周囲20kmの細長い湖の芦ノ湖畔までの上り四里、三島までの下り四里をあわせていい、東海道の中でも箱根越は苦難の道だったようです。
芦ノ湖畔

そのためか、芦ノ湖、二子山のふもとから精進池付近に、大小数多くの石仏、石塔が立っています。
箱根路石仏

箱根路の中心は、江戸幕府が設置した箱根峠寄りの人口の町である「箱根宿」と「箱根関所」です。「箱根関所」は、「入鉄砲に出女」といって特にこの二つを厳重に取り締るために元箱根側の芦ノ湖畔に設置した関所です。
箱根大湧谷

また、約3000年前の箱根火山最後の水蒸気爆発をおこした爆裂火口で、今もなお熱い水蒸気と硫気を噴出している「大涌谷」も有名です。大涌谷は古来より「大地獄」とよばれていましたが、明治6年に明治天皇・皇后両陛下が箱根に御静養に来られる際に「両陛下がお出になる地に地獄があってはおそれ多い」と大涌谷と改称されたそうです。
箱根芦ノ湖

箱根芦ノ湖_箱根神社鳥居

【豆知識】
箱根関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
箱根関(はこねのせき)は、かつて箱根にあった関所である。
狭義においては江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、相模国足柄郡箱根(現在の神奈川県箱根町箱根)の芦ノ湖湖畔に設置された東海道の箱根関所(はこねせきしょ)を指すが、広義における「箱根関」は江戸時代以前に箱根山山麓に置かれた関所及び江戸幕府が東海道と並行して走る脇往還に設置した関所も含んでいる。
概要
箱根に関所が設置された始期については定かではないが、律令期には既に箱根峠を経由する箱根路が開設されるとともにその路上に関所が設置されており、足柄峠の足柄路とともに関東防衛の役割を担った。承平の乱の際に平将門が箱根に兵を派遣してこれを封鎖することを考え、承久の乱の際にも北条義時が御家人から出された箱根路・足柄路に置かれた関を固めて同地で官軍を食い止める策を斥けて兵を上洛させたと伝えられている(『吾妻鏡』承久3年5月19日条・『承久記』など)。室町幕府の鎌倉府も箱根に関所を設置して関銭の徴収を行った事が知られ、康暦2年(1380年)には、箱根の蘆川宿に関を3年間限定で設置して円覚寺の修繕に充てたと伝えられ、その後も応永13年(1406年)に箱根山中の水飲峠に水飲関が置かれたという。その後、戦国時代に後北条氏が箱根山の西側(伊豆国)に山中城を設置した際に関所の機能を吸収したという。
後北条氏滅亡後、江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、そのため箱根峠寄りに人口の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置したのである。
箱根関所は一時期を除いては原則的には相模国足柄郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされ、通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された。また、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。特に寛永年間に同じ東海道の今切関所と役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲を監視し、箱根が江戸から出る女性を監視する任務を主とするようになった。貞享3年(1886年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当を肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。
箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定され、建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとして者は厳罰に処せられたのである。
箱根関所以外にも箱根裏街道には仙石原関、足柄路の流れを汲む矢倉沢往還には矢倉沢関所、熱海入湯道(熱海道)に根府川関所など5ヶ所の脇往還にも関所が設置された。江戸幕府の公式な箱根関所と5つの脇関所から江戸時代の箱根関が構成され、それ以外の経路を通過することは「関所破り」「関所抜け」として固く禁じられていた。
明治2年(1869年)に明治政府が諸国の関所を全廃したときに廃止された(ただし、幕末の慶応の改革の段階で簡単な検問機能のみに縮小されていた)。跡地は国の特別史跡とされ、昭和40年(1965年)になって箱根町立箱根関所資料館が開設された。
箱根宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
箱根宿(はこねじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。現在の神奈川県足柄下郡箱根町にあった。
1618年に箱根山にかかる箱根峠と箱根関所の間の狭い地域に設置された。これに対して古くからの箱根の町があった関所から江戸寄りの地域を「元箱根」と呼ぶ。これは関所設置に不満を抱いた元箱根の住民が本陣の提供を拒んだため、大坂寄りに急遽人工の町を設置したためである。最初の住民は隣接する小田原・三島両宿場の住民を強制的に移住させたといわれている。標高725m という五十三次の中で最も高い場所に置かれていたため、幕府も宿場の維持に苦心したという。
隣の宿場
小田原宿 - 箱根宿 - 三島宿































